アドラー心理学において、「劣等感」と「劣等コンプレックス」は明確に区別されます。
劣等感(feeling of inferiority)そのものは、誰もが抱く自然な感情であり、理想の自分を目指すための「向上心のエネルギー」になり得るものです。しかし、それが「劣等コンプレックス(inferiority complex)」に形を変えた途端、人はそれを「行動を起こさないための精緻な口実」として使い始めます。
結論から言えば、劣等コンプレックスとはつまるところ、「行動しないこと」なのです。
神経症は「臆病な態度」である
アドラーの直弟子の一人であるW・B・ウルフ(W. Beran Wolfe)は、その著書『どうすれば幸福になれるか(How to Be Happy Though Human)』の中で、次のような言葉を残しています。
「神経症は病気ではない。人生の諸問題に対する臆病な態度である」
人生には、仕事・交友・愛をはじめとする様々な課題(ライフタスク)が立ちふさがります。これらに直面したとき、傷つくことや失敗することを恐れて一歩を踏み出す勇気が出ないとき、人は自らの「臆病さ」を覆い隠すための予防線を張り始めます。
その典型的な言動が、次のような思考パターンです。
「もし〜だったら(If only...)」
「もし十分な時間さえあれば」「もし恵まれた環境だったら」と仮定の世界に逃げ込み、現在の自分の不行動を正当化する。
「Yes, but...(はい、でも……)」
やるべきことや正論は頭で理解しつつも、「でも現実にはこんな支障があって」と即座に反論を作り出し、第一歩を踏み出さない。
行動さえしなければ、「本気を出せばできるはずの自分」という可能性の領域に留まり続けることができます。劣等コンプレックスとは、失敗して自尊心が損なわれることを恐れるあまり、「行動しないこと」によって可能性の中へ逃避する戦略にほかなりません。
スロットマシンの前で立ち尽くす人々
ウルフは同書の中で、劣等コンプレックスに囚われた人間の姿を、スロットマシンを用いた鮮烈な比喩で描いています。長くなりますが、実に本質を突いた引用です。
「この地球上で生きることは、スロットマシンを操作しているようなものだ。コインを入れた人はチョコレートを手にできる。投資に見合った満足感が得られるというわけだ。こんな簡単な関係が、劣等コンプレックスを背負った人たちにはまるで神秘のように理解できない。
彼は、いつの日か次のチャンスがやって来ないかと、あわれっぽく待ちながら、スロットマシンの前で立ち尽くしている。彼はスロットマシンを呪い、あるいは上品な自分にはこんなものは似合わないと、偉そうに言っている。鏡の前で気取ってみたり、怒りに燃えて歯ぎしりしたり、悪態をつく。悲しみにうちひしがれ、後悔と自責の念に苛まれる。スロットマシンなど実際には存在しないと抗議したり、チョコレートの質を非難する。あるいは、神を非難し、女性の裏切り、自分の肉体の弱さ、教育の不足、両親の悪意などを責める。
コインを入れないかぎり、チョコレートは出てこないというのに。」(W・B・ウルフ『どうすれば幸福になれるか』一光社)
なんと鋭く、残酷なまでに正確な描写でしょうか。
スロットマシンに「コインを入れる(=リスクを取って行動を起こす)」という単純な一手を行わないまま、マシンの構造を批判し、世の中や過去、環境や他者を呪い、悲劇の主人公のように溜め息をつく。
コインを入れなければ、チョコレートが出てくることは永遠にありません。どれほど高尚な議論を展開しようと、どんなに悲痛な言い訳を並べようと、物理的な事実は「コインを入れていない」というただ一点に尽きます。
「コインを入れる」勇気
劣等感を抱えること自体は悪ではありません。しかし、それを「だから動けないのだ」という言い訳に変換した瞬間、私たちはスロットマシンの前で袖をこすり合わせながら、ただ悪態をつくだけの住人になってしまう。
必要なのは、特別な才能でも完璧な準備でも、誰からも非難されない保証でもありません。ただポケットから一枚のコインを取り出し、投入口へ投げ入れることなのです。
「行動しないこと」の影に隠された、自らの臆病さを私たちは直視すべきです。
不完全なまま一歩を踏み出す「勇気」を持つこと。それこそが、人生というスロットマシンから確かな成果(チョコレート)を受け取る唯一の方法なのですから。
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アドラー教育研究所